キリストの弟子になる

信者であることと、主の弟子であることとは違います。 ​主の弟子であり続けるために。

1.弟子であるとは

主は言われました。

もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。(ルカ14:26−27)
 
それでイエスは、弟子になる人に対しては、「わたしに従いなさい」と言われました。
 
ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨセフに
エスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。(マタ4:19他)
そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。(マル2:14他)
その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。(ヨハ1:43)
 
弟子であるとは、主イエス・キリストが弟子になる人に対して言っておられる言葉に、私も従うことです。
 
マタ10:37-38
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。
 
マル8:34
それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

2.「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹、更に自分の命も憎む」とは

「憎む」というのは、「選ばない」ということです。まず第一に主を選ぶ(愛する)のでないと、人を本当には愛せないので、イエスの弟子にはなれないからです。
 
十戒の第一戒と第二戒
「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」
「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。」
 
というのは、主以外のものは神ではないので、自分の創造主を神としないなら、人はそれ以外のもの―親、自分、金銭、アイドル(偉人)など―を神であるかのように信頼したり依存したりしてしまうということです。そうすると、真の義と愛から離れてしまいます。神につながって、人は、真実に人を愛することが出来ます。
 
エスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(マル12:29-31←申6:4-5、レビ19:18)

3.「自分の十字架を背負ってついて行く」とは

具体的に、キレネ人シモンの様子を思い浮かべるとよいかもしれません。
 
兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。(マタ27:32)
 
そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。(マル15:21)
 
人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。(ルカ23:26)
 
シモンは、イエスのかかるべき十字架を、イエスの代わりに背負って、イエスの後について行ったように見えますが、それは、本当は、シモンの十字架であり、私の十字架だったのです。主イエス・キリストが、私がかかるべき十字架につけられて、私の代わりに、裁かれたのです。聖書には書かれていませんが、ゴルゴタに着いて、シモンからイエスに十字架が渡された場面があったかもしれない。あるいは、シモンが運んだ十字架に、シモンは付けられずにイエスが付けられた場面は、主が私の身代わりになられたことを象徴しています。
ですから、今、私は、まだこの世で生きているので、自分が付けられるべき十字架を背負って、主に従って歩みます。私の十字架を背負った主が、私の前を歩いてくださっているから、ついて行けます。主が裁きを受けてくださったから、神の御前に出ることが出来ます。神に見捨てられるべきは本当は私でした。私はその痛みと恐怖をイエスさまに負っていただいたので、イエスに付いて行きます。そして主の跡に従って、自分の十字架にかけられて死に、復活に与る者として生きます。私が生きるために、主は私の身代わりに死んでくださいました。だから私も主のあとについて自分を捨てます。弟子になる人は、初めからそのように召されています。「弟子になりなさい」と、声をかけていただいています。

4.「自分を捨てる」とは

自分の持ち物、記憶、過去、未来像、自分が選んで持っているもの、すべてに、執着せず、自分から解放されるということです。
また、自分のものを持っていては、私の内は聖められず、聖霊が住めません。主は弟子が求め続けるなら、非常に多くの善いものを与えようと準備しておられますから、塵芥は全て捨てます。


しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。(フィリ3:7-8)

悪いものだけ捨てて、好きなものは持っていていいのではありません。自分が良いと思うものや、自分の正しさも、捨てます。
事実、パウロが言っているように、それまで誇りにしていた物事は、キリストの弟子になると、全く意味のないものであることがはっきりと分かるようになります。

なぜ、自分の正しさも捨てなければならないのかというと、「善い」方は神お一人だけで(マタ19:7)、神の正しさと、人の正しさには、接点がないからです。
神の正しさを、人が行っても、それは人の正しさにはなりません。律法は、「義」、神の正しさです。しかし人がいくら律法を行っても、それで正しくはなれません。神の正しさとは、神が義で在られるということであって、人が正しいこととは関係がありません。正しい方に、正しいと認められるのは、その正しさに、ただ、与ることにしかよらないのです。だから、律法を自分で行っても、完全にはなれないのです。律法を行ってさえも正しくはなれないのですから、自分が正しいと思って行っている道徳的正しさは、神に義と認められることとは関係ありません。


肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。(ロマ8:13)

5.「従う」とは

イエス・キリストの命令を行うことです。神の御心を信頼しているので、その命令を行うために、自分の権利や都合を主張せず、主が私に何を命令しておられるのかを、いつも聞こうとしています。忠実なペットの犬の様子に似ているかもしれません。主人をじっと見て、自分のことをしていても、あらゆる感覚を主に向けて、命令を待っています。主が「しなさい」と言われたことに、「出来ません」と言いません。喜んでやってみます。失敗したら、悲しい顔になりますが、すぐに次はどうすればよいか、主人の命令を仰ぎます。主人は、その子の力量に応じて、するべきことを与えてくださいます。
主が言われた通りにする時は、実は主がしてくださっているのです。ですから、失敗した時は、自分の工夫が混ざったのです。自分で工夫して出来るということは誘惑なのですが、実はそれは風を見るようなことなので、悔い改めて、自分を捨てる、これを繰り返して成長させられます。

シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。(ルカ5:5-6)
主のことばどおりにしたので、成功しました。

エスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。(マタ14:29-30)
主から目を逸らして風(見える世界)を見たので失敗しました。

弟子はキリストの者となったので、世に属さなくなりました。
世に属する人としての自分が、キリストの十字架に与って、死にました。肉の人が死んで、霊によって新しく生まれたので、その人は、キリストの復活に与って、永遠の命を持って生きる者とされました。
 
肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。(ヨハ3:6)

ですから霊から生まれさせていただいた人は、「聖霊を下さい」と求め続けます。


あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。(ルカ11:13)
 
しかし、「もう霊によって生きているのだから天使たちのようにただ主に従っていられる」のではありません。天使のように実際に完全にされるのは、復活後です。今は、神の国の国籍をいただいた者として、地上で歩んでいるので、自分を捨てて、心に霊をいただいた自分の意志で、考えて、主がしてくださったことに応答します。「私の思いまで支配してください」と願うことも出来ます。
主の側では贖いは完成しています。けれども、人の側では、まだ肉が空中の支配者(エフェ2:2)の下にいるので、弟子は、力を尽くして主を選んでいなければなりません。


わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。(エフェ6:12)
 
心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。(マル12:30)
 
弟子は、イエスさまについて行きました。今は、使徒たちのように、イエスさまが帰ってしまったので下さった聖霊に、従って行きます。自分の都合ではなく、聖霊の導かれるところへついて行きます。聖霊が、主イエス・キリストによって完成された律法(イエスご自身・イエスの御言葉)を持って、導き、行わせてくださいます。
 
弟子は、主イエスを「信じた」だけではなく、従います。
弟子になる人には「従いなさい」と言われています。
本来「信じる」と「従う」は同じ意味なのです。「聞く」も「聞き従う」という意味です。信じる人は従うからです。それが「信仰」です。
アブラハムの信仰は、
その行いと共に働き、信仰が行いによって完成されました(ヤコ2:22)。
主の民が信じるために与えられたモーセの律法は、それに従順に従った神の子ナザレのイエスによって、完成されました。
主は、主の民が主を信じるために、モーセを通して人の近くに降りて来られ
主はモーセに言われた。「見よ、わたしは濃い雲の中にあってあなたに臨む。わたしがあなたと語るのを民が聞いて、いつまでもあなたを信じるようになるためである。」(出19:19)、
主の御言葉は、全ての人がそれを信じるために、イエス・キリストとして人の間に住まわれ
言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。(ヨハ1:12)
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。(ヨハ1:14)、
そのとおりに行われることによって成就しました
わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。(マタ5:17)。

人は、人の行いによって救われたのではなく、神の行いによって救われました。
ですから人は、それに応え、従います。

御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。
 (ヤコ1:22-24)

わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。
(マタ7:26-27)

御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。(ヨハ3:36)

6.「弟子であり続ける」とは

エスは、御自分を「信じた」ユダヤ人たちに言われました。 
「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。」(ヨハ8:31)
 
主に従う人は、御言葉の内に留まっているので、御言葉に沿わないことを見分けるようになります。ですから、世の中のほとんどのことと価値観が合わなくなり、世と調子を合わせられません。
地上にいるのに肉が死んでいるとは、欲がなくなったということではありません。「肉の人」であった時は、普段は肉に従って歩み、気が向いた時や決まった時間に少し霊的なものを求めていました。しかしそれが逆になります。
「霊の人」になると、常に霊のものを求めます。日常に主の声を聞こうとしています。そうすると、価値観が、この世のものとは全く違ってしまいますが、そうならなければ、神の言葉には従いえないのです。
 
わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(ヨハ12:26)
 
主に従う人は、主に仕えています。何をするにも、主の召し使いのように、主を意識しています。


御覧ください、僕が主人の手に目を注ぎ/はしためが女主人の手に目を注ぐように/わたしたちは、神に、わたしたちの主に目を注ぎ/憐れみを待ちます。(詩123:2)

そのような霊的な生活は、霊的な礼拝に支えられています。
霊的な礼拝とは、毎日
自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げ(ロマ12:1)ていることです。
聖なる主のものとしていただくために自分を献げる人は、自分を生けるいけにえとして焼き尽くし、自分の内に塩味を保ちます。

穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ。(レビ2:13

人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。(マル9:49-50)
 
互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハ13:35)
 
主に従う人は、人々の目にも分かります。イスラエルの民も、最初の使徒たちの群れも、そのようでした。
 
そのとき、わたしは、この民にエジプト人の好意を得させるようにしよう。出国に際して、あなたたちは何も持たずに出ることはない。(出エ3:21)
 
主はこの民にエジプト人の好意を得させるようにされた。モーセその人もエジプトの国で、ファラオの家臣や民に大いに尊敬を受けていた。(出エ11:3)
 
主は、この民にエジプト人の好意を得させるようにされたので、エジプト人は彼らの求めに応じた。彼らはこうして、エジプト人の物を分捕り物とした。(出エ12:36)
 
神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。使徒2:47)
 
使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。使徒4:33)
 
その人から出る言葉や行いが本物であれば、実を結びます。
 
あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。(ヨハ15:8)
 
このように、生活が変えられていつも主に従おうとすると、主が毎日豊かに教えてくださるので、いただく喜びと平安はこの世のものではない幸いであり、また主の嫌われることによく気付くようになるので悲しみも増し、常に悔い改めに導かれ、いつも祈り求めるようになります。
 


しかし、信じていても、弟子になっても、離れてしまうことがあります。
 
ほかに、弟子の一人がイエスに、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。(マタ8:21)
 
このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。(ヨハ6:66)
 
また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。使徒20:30)
 
なぜか。
 
主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が/神とお前たちとの間を隔て/お前たちの罪が神の御顔を隠させ/お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。(イザ59:1-2)
 
世は、神の御計画により、まだサタンに預けられているからです。
そしてサタンの力は、神の次に強いのです。
神の言葉を信じて喜んでいる人は、「神が救ってくださった自分は神に守られているのでもう大丈夫だ」と思いがちです。ユダの民が昔、「神殿があるのだから自分たちは大丈夫、選ばれているのだから大丈夫だ」と、主を真実に求めていなかったのと同じです。そして、「イエスさまが私を救ってくださったし、サタンは悪者なので、もうすでに地獄にいるのと同じだ」と思って油断していますが、まだです。


サタンでさえ光の天使を装うのです。(Ⅱコリ11:14)

神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。(ヤコ7:7)
  
サタンの敗北は、初めから決まっています。
イスラエルへの約束も、破棄されていません。
イエス・キリストによる救いも完成しています。
だから、それを信じていても御言葉にとどまっていない人には、誘惑を見分けることも出来ず、悪を避けることも出来ず、神の怒りがとどまるのです。
 
ヨハネ3:16は、聖書全体の中心聖句だとよく言われていて、大変好まれています。しかし、正確に理解されていないことがあります。


神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハ3:16)

この御言葉は、ニコデモに、人は水と霊とによって生まれなければ神の国に入ることができない(ヨハ3:5)ことを教えている時に言われていて、
「独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るために、神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された」と言っているのです。神は、真の光である神の御言葉に、なんと肉を着せて、神の言葉を行いえない暗闇の世人の間に住まわせ、人として、その中で律法を成就させ、人が神に近付くための道を開いたたのだと(ヨハ1:1-5,9-14,16-18)。神は律法という恵みをイスラエルに与え、さらにそれを完全に行う方を世に与え、神を示されたのである。そしてそのことを信じるなら新しくされて、それによって本当に神の国に生きることが出来るのだと教えているのです。肉の系図に頼り、アブラハムの子孫だ、祭司の家系だということで人は神のものとして在るのではない、霊から生まれた者が、神の国に入るのであると。
ですからこの御言葉は、「独り子を信じる者は一人も滅びないで、永遠の命を得る」と言っているのではないのですが、多くの人がそのように読んでしまうのです。
さらに「信じる」という言葉の意味を「信じるだけ」に変えてしまうのです。「信じるだけ」というのは、頭の中で思い込んでいるだけということです。
同時にパウロの手紙にある恵みの言葉を部分的に合わせ読み、無学で心が定まらないために曲解して、自分の滅びを招いています(Ⅱぺト3:16)。
しかし人が本当に信じているのであれば、生活がそれを示します。

魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。(ヤコ2:26)

「信じる者には永遠の命がある」というのは事実なのです。
神は無条件に恵みを一方的に下さったのも事実なのです。
救いは完成しています。
それは、神は、御子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るため、つまり、信じる者を聖めるために、御子イエス・キリストを醜い人間の歴史の中で十字架につけるという「神業」を成してくださったということです。ただこの「奇跡」によって、信じる者は生かされて、何も持たずに神の御前に出ることができるようになったのです。神の聖さは想像しきれないほど恐ろしいものです。真の礼拝者が「霊によって礼拝する」とは、自分の全て―世への執着、過去、功績や正しさも―を捨てて、主イエスさまに与っていることなのです。この礼拝が、私の永遠の行いになる時を待ち望み、神の国の希望を確信して求め続けます。それが、主の命令に従うことです。キリストの弟子が律法(御言葉)を行うのは、肉によってではありません。自分で頑張ろうとするとキリストから離れてしまいます。肉は霊の言葉を行いえません。霊が肉をコントロールするのです。イエスさまが復活なさって聖霊を下さったので、その方について行くことによって、従う力が与えられます。地上ではまだ完全にはなれませんが、もう完全にされるようになっています。だから諦めずに従えるのです。そのように従っているのが「弟子」です。従うというのは、イエスさまが教えてくださっている言葉を、一つ一つその意味する通りに理解して行うということです。主の命令を愛して止まないので、求め続け、失敗しても悔い改めて従い続けます。

 
 
(以上『弟子であるとは』 ©2021.6.安久実保)

*行いがあったのに、「知らない」と言われる人

主イエスは、「わたしの天の父の御心を行う者だけが、天の国に入る」と言われた時、御名によって奇跡を行った人に対して、「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ」と言われました。
マタイ7:21‐23
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」
この人たちは、「御名によって」主の業を行ったのに、イエスさまからは「不法を働く者」と定められたのです。なぜなら、主の御名の力は、ただ主から与えられるものであるからです。自分の功績とは何の関係もありません。主が御自由に、与え、取られます。いただいたから自分のものだと思ってみだりに御名を唱え、まるで主に従っているような行いをするのは、偽善です。
使徒たちも主イエスの権能を授けられ、悪霊を追い出しました。その中にはイスカリオテのユダもいました。
「主の御心を行う」とは、主の名を利用してその力を振りかざすことではなく、主の御心とは何かを判断することではなく、主の命令に聞き従うことです。
 
「神の愛は無条件の愛、一方的な愛です」と説明されます。聖書にはない言葉で組み合わされた聖書的な言葉は、時に大きな誤解を招きます。
条件がないなら、契約とは何なのか。
「そのままで救われる」も、その類です。
「一人でも多くの人に信じてほしいから」という気持ちはとてもよく分かります。
その言葉のお陰で、またそれを一生懸命伝えてくれた人に魅かれて、洗礼を受ける人もいると思います。しかし、世に迎合しても本当の信者は生まれないのです。
 
世に福音を伝えるために、主も使徒もこういう言葉は使っていません。言葉で人を誘おうと工夫する人は、パウロの言葉もパウロの本意に反して「切り取って」使ってしまいます。
キリストは、罪の世に来られましたが、人に媚びてはおられません。
 
御子が「世」の中に来られたのは、滅びる「世」から人を救うためです。また、御子が「罪人のため」に死なれたのは、人から「罪を取り除く」ためです。これらのことは、人がまだ罪人であった時に、ただ神の側から為されたことです。
 
ですから、ただで救われた人は、「罪が取り除かれて、世から解放されて」いるはずなのです。
 
主は「神の国はあなたがたの間にある(ルカ17:21)」と言われています。今、あるのです。今、神の御支配の中で生きさせていただけるということなのです。「キリストが私の罪を全部許してくださったから、天国に行くまでそのままでいい」のではありません。「神の国は言葉ではなく力にある(Ⅰコリ4:20)」のです。
 
クリスチャンの中には、「イエス・キリストが、私のために十字架にかかり、罪を赦してくださったことを信じます。イエスは主です」と言ってバプテスマを受けたので、もう救われて聖霊もいただいたと思って高ぶっている人もいます。そういう人は、昔から、いつでもいるのです。
主が完了してくださったのだから、自分も何もしなくても完了していると、思うのです。主は永遠であるので、主の完了形は、過去現在未来の全てをいちどきに知っておられるがゆえの完了形なのですが、人には限界があり、時間の中で生きるようにされています。ですから当然、努力します。パウロでさえ、「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(フィリ3:12‐14)と言っています。
パウロは肉を恐れて努力しているのではなく、自分がキリストに捕らえられているところへ向かって努力しているのです。
肉を恐れて、相変わらず「霊と肉の区別をしましょう」と言っている人は、その人自身が自分の腹に仕えている肉の人だからです。「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです(エフェ6:12)」。私たちが区別しなければならないのは、「霊」です。
「肉と霊」については、その区別が出来たから、悔い改めて、バプテスマを受けたのではないのか。主イエスの教えの初めは「悔い改めよ。天の国は近づいた(マタ4:17)」であるのに、「悔い改め」を省いて、自分の命のために天国へ行きたいためだけにバプテスマを受けたので、自分を捨てることの意味も分からず従えない人が多いのです。
 
「神の愛が無条件である」というのは、「神の愛が人の条件とかかわらない」ということであり、人が神の愛に影響を与えることは出来ないという意味です。神は愛そのものなので、一方的に愛して、愛を教えてくださるのです。その愛は御子の死によって現されました。そしてその愛を人が受け取ったなら、花嫁になる者としてその愛に応えようと努めるのは当然です。信じて、従わない人は、神がご自分の命の上に立ててくださった契約の上に、ふんぞり返って座っているような、全く神を馬鹿にしている人です。「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる(ヨハ3:36)」のです。